昭和52年07月25日 朝の御理解
御理解 第45節
「世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほどかがむ。人間は、身代ができたり、先生と言われるようになると、頭をさげることを忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。とかく、出る釘は打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思うけれど、大声で叱ったり手を振りあげたりすることはないが、油断をすな。慢心が出ると、おかげを取りはずすぞ。」
合楽理念が言われるようになり、もう私共の助かりお徳を受けていくには、もう合楽理念をおいてはないと私も思うし、段々それを行じておる人達は、それを痛感するだろうとこう思うです。例えば今日の四十五節を頂きましても、世に三宝様踏むなと、三宝様踏むと目がつぶれると言うがと。私は世に三宝様と言うのは、これは穀物の意と説明がしてございますですね下に。言うならば世に三宝様と言うのは、世の中でも一番大切なものという意味なんです。
だから一番まぁ大切なものといや、人間の命の根である所のまぁお米、言うなら食べ物。ですけれども同時にほんなら、一番大切なものそれは、親先祖私共に取りましても、お互いの家に取りましても、親先祖は大切であります。合楽理念の根本は、親孝行にあると言われております。親孝行が出来る人や、どんなに合楽理念をマスターした所で、それはもう土台を作らずに家を建てるようなものです。
合楽理念の芯になるもの、言うならば天地日月の心になる事肝要とこう仰る、それを私共が永年、行の上にあれを現して参りました。所謂愈々成り行きを大切に、成り行きを尊ばせて頂き、全ての事柄に御の字を付けてと、こういう生き方がそのまま、天地の心を心として、大事にすることであるという事が、段々分かってまいりりました。天地の心を心とする。天地の心が分かれば分かるほど、天地の働きそのものを大切にしなければならないことが分かってまいります。
それをなら成り行きを大事に、もうしかも尊ぶという事です。どういう事柄であっても、その事柄に、御の字を付けて頂く事になるという事は、合掌して受けるという事である。これだけでも成程合楽理念の素晴らしさと言う事を感じます。だからそれを頂き徹していかなければいけんのです。最近は言うなら日月の心。日月の心とはねいわゆる実意丁寧神信心。間違いのない狂いのない正確な信心。
それを最近は心行で受け止めようと言うのです。心行が出来ておらなければ、中々その実意丁寧神信心が出来たかの様にあって目が粗うなって来る。だから合楽の信心はもうドライになって来た様な信心は、愈々もうこのドライな信心がね信心を段々お粗末にして、浅薄なものにしてしまうんです。若先生がこの頃まぁ感ずる所があったと。それはどういう事かと言うと僕は言うなら二代を継ぐ。
言うなら二代の教会長としてのおかげを頂かんならんから、二代教会長としての信心やら修行が出来ればそれで良い様に思うておったと。所が最近まぁ色々感ずる所があって、こんなに言うならば割り切った信心じゃいけないと言うので、最近は神前奉仕もまぁ言うならば、当たり前の事ですけれども、真面目にしております。それをほんなら今までは真面目じゃなかったと言うのです。割り切っておった。
これだけ修行生が沢山おるんだから、私がせんでもと言った様なものが、まぁそんな横着な気持ちでもないでしょうけれども、そこに今あの人なりの割り切ったものがあったんですよ。勿論修行生が毎日その日の御理解の研修を致しますのなんかは、もう勿論出てこなかったが、この頃はもう一番ここの真ん中に、まん前に出てきてその研修を一緒にさせて頂いております。言うなら実意丁寧神信心の意味が分かってきた訳です。日月の心になること肝要と仰るという事は、そういう信心なんです。
今まで本当に天地日月の心と言う、天の心地の心天の心とは、もう限りなく美しゅうならにゃん。地の心と言うのは全ての事を黙って黙って受けて受けて受け抜いて、力を受けて行こうという信心。愈々自分の心を肥やして行こうという信心。まぁそれに本気で合楽の方達は、取り組んで来た訳です。成り行きを大切にする、成り行きを尊ぶという風に言ってきた訳なんです。
所がどうしてかそのおかげがこう実りという事になってこない。言うならば日まさり月まさりという事になってこない。年まさりという事になってこない。何所にかで堂々巡りになってしまいよる。その日その日のおかげは頂いておって、本当に神様の働きの間違いのないのには恐れ入りますと。言うならば千円のお供え日暮らしが出来るという事が、本当にさぁ明日は明日の風が吹くという様な安らいだ心で、日々を過ごさせて頂きゃあくる日もまた千円のお繰り合わせを頂いていくけれども。
それが有難いのだけれども、千円が万円のその日暮らしになっていかなければ、日まさり月まさりという事にはならんのだ。これが年勝りというおかげになってこなければ、本当の事じゃないのだと。どこにその原因があるのだろうかと。堂々巡りをしておると言う事も、その堂々巡りをしておるうちに、本気でほんなら、天の心地の心が分からせて貰うて、成り行きを大事にする、全ての事に御の字をつけて行くという生き方が、愈々本当のものになって来るという事の上においては有難いのだけれども。
そんならもう少しおかげのほうが進展していかなきゃならない。進まなければならない。どういう訳だろう。そこに初めて分からせて頂いたのが日月の心であった。成程この日月の心という信心が出来ていなかった頃から、おかげは受けておるけれども、そのおかげが漏ってしもうて、堂々巡りのおかげにしか繋がっていなかった事に気付かせて頂いて、今日の合楽の信心、いうならば合楽理念が、言うならば金光教の信心を完璧にするとまで言われてきた。これからはもう限りがない事である。
それこそなそうと思えば子供でもなせる。そういう様な事を、大人の私達が疎かにしてきておった。まぁ言うならばドライにしてきておったというふうにも言えるかも知れない。この頃もう表行のない合楽では、本当に心行に取り組まなければ、もう行という事がなくなって来るんです。行のない宗教なんてあろう筈がありません。これは宗教に限らないことですけれどもね。その技を例えば身につけていくとか、愈々磨き上げて行くというために、修行のないものはありません。
とりわけ宗教に於いてはそれなんです。それこそあらゆる火の行、水の行をしてからでも、本当のものを体得しようと努力します。その表行という事が、金光教の信心には所謂、本当の金光教の信心の独自性を、私共が身に付けようと思うたら、表行全廃しなかったら本当の金光教は身には付かんと分からせて頂いて表行全廃、そして心行一つに絞らせて頂いておる。ですからその心行を水も漏らさぬものにする事の為に、ほんならどんな小さい事でも見逃さない。
お風呂は入っての一つのマナーがある。しかもそれはマナーと言うよりも。ただ自分も気持ちが良いじゃなくて、後からまたお風呂を使う人達が気持ち良いだろうと思や、そうせずにはおられない事になってこなければ心行にならない。ただ自分が清潔好きだからきちっとすると言うだけであったら、外の者がろくそにしよったら腹が立つ。けれどもそうしなければおられない心が、いうならば心行から生まれてきた訳なんです。この頃からマルショウの今育成という事がもう信心という事は、もう殆んど言われない。
いうならば世界中にある、ほんならばあのボーイスカウトとか、ガールスカウトと殆んど変わらないようになってしまう。けれども合楽ではこれではいけないぞと。だから指導するリーダー格の方達が、本当に合楽理念をマスターして、子供達でも合楽理念のマスターと言うよりも、例えば子供でもやろうと思えば出来る信心を教導していかなければいけないよと、いう風に私は言っております。
一事が万事に心を使わせて頂いておるとはぁここもお粗末であった、こう言う所からおかげは漏っとったのかとねそれは、小さい穴であっても四六時中ずうっとそこから漏っておるのだから。どうもこの頃風呂の水がおかしい。確かに一杯入れた筈のつが減ってしもうとる。どっかちょっとひびが入っておって、そっからずうっと漏りよったという様にですね。そりゃ本当にわずかな事のようであるけれども、四六時中漏っておるのですから、また、元の木阿弥になってしまいよる訳です。
成程これじゃ千円のその日暮らしだけしか出来ん筈だという事になってきた訳です。千円のその日暮らしから、万円のその日暮らしが出来るようになっていかにゃいかん。貧争病がないと言うても、その貧争病と言う世界が、愈々輝かしいものになっていかなきゃならん。為にはですどうしても日月の心と言われる正確無比の信心を、いわば目指さなければならない。そこは人間の事ですから、何所にお粗末がご無礼があるか分かりません。そこを今日私は四十五節しじゅうごせつという風に思うんです。
どういうほんなら合楽理念をマスターして、完璧にほんなら勿論、合楽理念はおかげが頂けれる御徳が受けられる。この生き方で行きさえすれば間違いがない。それを私は完璧の域に入ったとこう言ってるんです。迷いがないこげなこつしよっておかげ頂くじゃろうか。こんな事して徳が受けられるじゃろうかと不安じゃなくて、絶対受けられるという一線上に出たのが合楽理念なんです。ですからこれを皆さんは自分のものにしてさえいけば、成り行きを大事にする、全ての事に御の字をつけてと言う頂き方。
もうそういう生き方頂き方が、もう非常に有難いものだという事が分かって来ないと面倒くさくなるです、やっぱ人間じゃから。もうそげんまでせんでん良かろうち言うごつなってくるです。受けられんものは受けられんという事になって来る訳です。所がそれが神様の心なのです、天地の心なのですから、天地の心に通うから、必ず有難いものを、そのお返しのように照り返ってくるんです。
その有難いものが言うならば、その味が忘れられない。それを愈々密なものにして行こうという精進も、また出来てくる訳なんです。そこにはっきり答えが出てくる。勿論おかげも伴うて来る。成程この生き方で行きゃ、愈々このお信心が血に肉になった時に、これがお徳という事にもなって来るという確信が出来てくる。その上言うならば天地の心を心としての生き方の上に、いわゆる日月の心。これは人間私共がです、愈々言うなら正確な信心。こりゃ私共がさせて貰う。
先日佐田さんの所に末永先生が手紙を出しておる中に、是は不思議な不思議なおかげを頂き、その町の病院の先生のお母さんに当たる方が、まぁ世にも不思議な病気があると言うのは、この血液の中に油が混じっておるという病気。その為に身体が動かないそれがお参りをして来る様になって身体が動くようになった。言うなら神様が油の入った血と綺麗な血とを入れ替えて下さったという感じですと書いてあります。
ですから神様がです、言うなら体内の血を取り替えてくださる程しの事は、お出来になるけれども、神様はお出来にならん事が一つある。それは人間の心を変えるという事が出来なさらんと書いとります。だから人間の心は人間自身が変えて行かなければならないと書いたんです。こりゃもう人間私共自信が自覚しなければ、だから心は変えられないという事なんです。人間のこの体内に流れておる、血の入れ替えはなさるけれども、心の入れ替えは、人間自身がその気にならなければ出来ませんと。
そこにですほんなら本気で天地日月の心なら天地日月の心をです、一つの目当てとして、精進していく以外にはないという事が分かるでしょう。限りなく美しいものを、限りなく辛抱強う、じっと受けて受けて受け抜かせて頂く辛抱もさせても貰おう。しかも日月の心のように、いわゆる実意丁寧神信心、粗末なご無礼のないようにと心掛ける。そういう信心を、愈々身に付けていく喜び楽しみ、それこそ愉快な所まで、おかげを頂くためには、そうした天地日月の一つのリズムが、私共の周辺に奏でられておる。
その音律を聞き取る事が出来る様になる。もう愈々愉快である。神様の間違いない働きを聞いただけでも、身の内がずんとするくらいにある。昨日特別奉修委員の方達の時にお話をさせて頂き、神様の間違いなさという事を話し、丁度二十三日の月次祭に、必ず果物のあの大盛り籠に一杯、お供えなさるのは吉井の熊谷さんです。もう永年続いておる。所がその日は忙しくて果物を買いに行く暇がなかったから、電話でこちらであの買い整えてくださらんですかと言うて電話がかかった来た。
だから熊谷さん所から、その日は果物が、全然お供えがなかった。だからあのほんなら、買わせて頂く様にと言うお届けがあっとりましたら、もう直ぐその後に障子を開けて入ってくる人が、こんな果物籠を抱いて入って来よる。今お供えしてあるのがそうです。メロンがあの大籠に一杯盛ってある。もう久しぶりに参ってきた信者です。だからその人が、はぁ今日は久し振りにお参りするけん、何かお供えしたいが何が良かろうかと、まぁとつおいつしただろうと思うです。
けれども神様がほんなら今日は果物を持って行けと、心にいわば示しなさったじゃないかとこうね本当に神様の間違いなさ。ここでの御神酒は菊正宗の超特級ばかりです。もう椛目時代からこりゃ高橋さんが月次祭たんべんに、こりゃもう必ずもう絶対です超特級の菊正宗を所謂お三方一台三本ずつお供えをなさいますです。ですから月には十二本それに合間に又ありますから、やっぱ十三四本の御神酒だけでそれだけです。
合楽ではおかげ頂いて、だから菊正宗は絶対あの私共が飲むと言った様なものには、絶対使わないのです。御神酒だけにしか使いません。そのそれこそ正確無比のお供えをしよりなさったけれども、椛目時代にある時でした。何かの都合でお供えが出来ない事があったんです。その事情は忘れました。それで実は今日はこんな訳でしたからと言うて、あの言いよりました所が、その日の月次祭には昼の間に超特級の菊正宗が、三本お供えがあっとったんです他所から。
高橋さんこれだけでもあんたのお供えを、神様が受けてござるという事が分かるじゃないのと言うて言うた事でした。昨日も私は特別奉修委員の方達にです。話を聞いて熊谷さんが月次祭たんべんに、このお三方一台だけはどんな事があってもと言うて、お供えをなさる。それがね受けてござるという事が分かるですねと言うて、間違いなさのその事を話しておる時にです。合楽食堂の中村さんがその間違いないというのを聞いた時にですね、もう背中がジーンとしたそうです。
ここ四五日身体が悪くて休んでおります。ただお参りだけやっと出来ておる。そのジーンとするのと同時にね、身体がしゃんとなったち言うんですから。信心ちゃ不思議なもんですよね。そういう言うならば信心を、神様が一分一厘間違いのない働きを示してくださる。もうこれは言うならば有難いとか勿体ないとかじゃなくて愉快です。今度の月次祭は、あのそっち側で買うてくれと言いよりなさると。言うておる所へ向こうから大きな果物籠を抱えて、お供えに持ってきておる人がある。
もう有難いよりかもう実にそのリズムに乗ってね、そういう働きが起こっておる。もう本当に愉快と言うより他にないです。信心というものは何と言う有難いそして、愉快なもんだろうかと言う所まで高めて行けれるのです。これはまた限りがありません。私は今日はね世に三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれると言うがと、ね。三宝様という事を今日は私共にとって一番大切なものという風に聞いて頂いた。
それを例えば穀物はもちろんの事、親そして言うならば一番大切なものは、神様の御働きそのものを疎かにするという事が一番ご無礼です。そういう事を平気でやっておるから、目がつぶれるという事は、何時まで経っても心の目が開かないという事なんです。いや心の目が開けておっても、これをドライにして言うならば、割り切った考えでです。もうこの程度で良いと言った様な事をしておったら、その開いた肉眼をおいて心眼を開けと仰る。その心眼までもまた薄うなってつぶれて見えんごとなって来るです。
信心はもう割り切るという事は絶対いけないですだから。ドライなことはドライな考え方は信心には大禁物です。私共は世に三宝様踏むと目がつぶれると言われる。その大事なものを粗末にするから目がつぶれるのです。帰ったらまぁ一遍あの霊神様がお祭りしてあるなら霊神様のお掃除をしなさい。お供えものどももう一遍し直しなさい。まぁだ改式してないなら、御仏壇のお掃除をしなさい。生き生きとしたお花の一つもお供えしなさい。線香も焚きなさい。という様にです改めて行く事なんです。
大切なものは私共に沢山あります。その大切なものをお粗末にする。お金なんかも人間のある意味では命です。その命を百円だから十円だからと言うてね粗末にするような人は、決して沢山な金には恵まれませんです。ね。大切なものをお粗末にすると、目が薄うなって潰れてくる。成程皆さん今日聞いて頂いた、合楽理念のマスターそしてその行者と言うか、それを行の上に現していくならば、おかげが受けられ徳が受けられるという事が、皆さん分かるでしょうが。
それをほんなら面倒くさいと言わずにです本気で全てのものに御の字をつけ、全ての事柄に自分の前に起きてくる全ての問題をです神様が私に求め給う所の修行であると、天地の心を持ってそれを頂き抜いて行く。そして頂くだけではない。それを完璧なものに愈々するためになそうと思えば、子供でもなせれる様な、「なせばなる、なさねばならぬ何事も、なさぬは己がなさぬなりけり」である。心のうちを改めるという事は、これはもう言うなら、神様は出来なさらん。
人間の体内の血を入れ替える事は出来ても、心を変えなさる事は出来ん。心を変える事は人間私共自信が、その自覚に立たなければならない。そして合楽理念をマスターして、それを業績の上に現して、家業の上に現して有難い楽しいこの様にも愉快なものが、合楽理念をマスターしていく人の上に、体験として頂けてくる様になる時に、それを持ってほんなら全教団の中に、又は和賀心世界に広めて行こう、作って行こうという大きな運動のなかに、私共が突入していかなければならない。
ただマスターしただけじゃ分かっただけじゃいかん。私を見てください。合楽理念をマスターして行じたら、こう言うおかげになって来るという、おかげを引っ提げての言うならば合楽理念いうならば、合楽示現活動に参画するという事にならなければならない。昨日杷木の教会の市川さんがお参りになった。先日から竹内先生のお話を頂いて大変感銘しましたともう感動しました。もうその日はもう興奮で休まれん位にありました。もう本当に素晴らしい。
竹内先生の合楽理念の説明といい。そして日々それを行の上に現しておられる水も漏らさんあのご信心振りを聞いて感動しました。その感動のまま休ませて頂いたら、朝方先生こういう不思議なお夢を頂いたと言われるのです。と言うのは海岸伝いに馬車が走ってくる空馬車が。その空馬車を私がもうしかも一糸まとわぬ真っ裸で、両方の手に榊の枝を持って、こうやってその大の字になってそれを止めた。と言うまぁお知らせと思わにゃおれない様なお夢でしたとこう言うのです。
だからその馬車という事は馬という事はあれは例えばですね。ある教会の先生がです、俺の所の信者を取ったの取られたのと言うのは、あのどういう事かと言うとね。はぁあの信者が、より素晴らしい教会に行って、素晴らしい信心を頂いてくれるなら、それが有難いと言うのが、金光様の先生でなからにゃいかんでしょう。それに信者を取られるという事は、自分のまんまに関係する訳です。生活に関わる訳です。
しかもその馬が走っておるという事は、そのね卑しい心でどんなにじだ走りしても馬車に誰も人が乗り手がない空馬車である。もしそういう教会があるならそういう先生がおられるなら市川さんあなたが折角合楽で、言うならない命を助けて貰う程しのおかげを頂いて、その後この様に繁々とお参りになってほんなら合楽理念を分かられたら。竹内先生が現しておられる様な、言うなら沢山の人を前にして合楽理念が語られる様になるおかげを頂く為には、こげなこと言いよったらあれがどげんか言うかも知れん。
例えば一糸まとわぬ真っ裸という事は、恥ずかしゅうしてと言った様な心を、かなぐり捨ててと言う事。両方の手に榊の木を持ってと言う。榊という字は木偏に神という字が書いてある。本当に神心になって合楽理念をマスターさせて貰うて行ずれば、こういう風に変わっていく。金光教の曲がり角と言われる、いうならば金光教に一つの革命が願われておる時期にです、合楽理念をマスターしておかげを頂いて、そしてほんならただ信者獲得とか、ただ生活の為に例えば。
教会の運営がなされておると言った様な教会があるとするなら、そういう教会の前に立ちはだかって、それではいけませんと止められるだけの力を受けなさいよと。折角あなた方の場合なんかは、それこそ御道の教師にでもなられようかというほどしに、若い時から、先生のいわば願いが掛けられとった方らしいですね、市川さんという方は。だからどうでもそういう信心に物言わせて、合楽理念をマスターして、合楽理念の行者になって、そして合楽理念をマスターすれば。
この様なおかげも受けられるという事実を示しながら、今の教団の生き方がいうならば馬車が駄々走りしておる様ないき方であるとするなら、それを止めさせて貰ういうならば使命感に立たなければいけませんという御理解でした。だからこれは市川さんだけの事じゃありません。合楽にご縁と頂く者の全てがね。そういう信心を本当にマスターさせて貰うてそれを行の上に現して。それこそ三宝様踏む様な事の無い愈々、肉眼をおいて心眼を開かせて貰うておかげを受けて。
日勝り月勝り、代勝りのおかげを受けて、それを世の中の多くの人に示していかなければならない。そういう一つの使命をね、私共には掛けられておるという様な信心がなされたら、本当に神様の喜びは勿論の事だけれども、私共もそれこそ輝かしい真善美に輝かんばかりのおかげも頂ける事になるのですから。本気で一つ合楽理念をマスターして、所謂三宝様踏むな、大切なものをいわばお粗末にする様な事のない信心になっていかなきゃならんという事です。
どうぞ。